山中模索を終えて

山中模索は山の中
人里離れた山の中
雲の生まれる場所に建つ
崖にへばりついた様な家で
模索人達があれやこれやと模索中

この物語は突然パラレルワールドに迷い込んだ話しなのかもしれません。
その導入は、ソロー誕生祭と言う不思議なイベントだった。
なぜ日本の祖谷と言う街に縁もゆかりもないはずのヘンリー・デイヴィッド・ソローの誕生祭が行われるのか?
そしてナコチと言う場所につけられた「かのようにの外」の様な場所と言うフレーズに、何がどうなるのか全く分からずに参加しました。
この日から私達はパラレルワールドに迷い込んでいたのかもしれません。
その日過ごしたことをこんな感じで記しています。

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雲の生まれる場所
青の時間にそれは始まる
眼下に広がる
山あいの谷間から
木々の間から
モヤは生まれる
モヤは霧となり
眼下は霧に包まれる
やがて霧は生き物の様に集まり
カタチが生まれ始める
ゆっくりとゆっくりと
形を変えながら凝縮を始める
ひとつのエネルギーの様に
凝縮を重ねた白い雲が
ゆっくりとゆっくりと
青の空間に浮かび上がる
今ならこの雲に乗れるかもしれない
雲はまだ眼下にあり
ふわぁと思考が軽くなる
まるで霧の様に
雲に吸い込まれる様に
雲はまだ眼下にあり
ナコチで過ごした朝の体験は、
人は仙人になれるかも知れないと思わせるものだった。
この場所は仙人が誕生する場所ではないだろうか。
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つまるところ「かのようなの外」にひどく心酔してしまったのである。

この場所でカタチのブティックは何かして見たいと言う欲求に駆られました。

しかし、この場所は日本有数の交通困難箇所であり並大抵の事では集客は見込めない場所です。
持って来た作品を飾る意味はあまり考えられませんでした。
さらに、私はこの場所をこのままであって欲しいと強く願っています、近年各地の芸術祭などで地元の人しか知らないローカルな名所が観光名所として飛躍する姿を何度も見てきました、経済効果などの良いイメージとは反対に元々持っているその土地の本当の魅力は消え失せてしまう事が多かった。

自分の活動がその加害者になる事はどうしても避けたかった。
「かのようなの外」を外のままにしながら自分達が往来するトンネルを作る方法を探しました。

「山中模索」と言う言葉が生まれたとは言ってもこの言葉はソローが使ったネイチャーライティングと言う技法名の真似をしたもので
日本語でその語感を再現しようと試みました。
しかし、私達にとって重要な事はこのイベントは展覧会でもレジテンスでもない「山中模索」だと規定した事でした。
作品を発表する事や何かを完成させる事を目的とせず模索の中に喜びを見いだそうと言う共通認識をこの言葉が作ってくれました。

そのため今回のイベントの集客と言うものに強くこだわりました。招待制で予約制さらに広報的な意味では場所を伏せる、と言う大胆な手法をとりました。
メールやDMなどでこの活動に興味を持って貰えそうな人に招待状を送ると言うSNS以前まで当たり前だった方法ですが。
現代においてここまでクローズの状態で人が来るのか?とも思いましたが観客いる?と勇気を持って決断しました。会場に来るのは模索人、観客はインターネットの向こう側と言う、山中模索のステージと客席の関係もここでクリアーになりました。

ある日、突然送られてくる招待状90年代風の怪しいサイト多くの人から「乗っ取り?」と言う反応がありました。
また、世代によっても反応は異なり時代を知っている人からは懐かしがられ、時代を知らない人からは怪しまれつつ可愛いと言う反応でした。

なぜ90年代風のデザインなのかと言うと。
インターネットが普及し始めた1995年から2000年頃
ネット空間と言う突然現れた未知の空間に、研究者だけでなくごく普通の人も参加出来る様になりました。
その人の持つジャンルに関係なく開かれた空間その空間は爆発的に広がり多様性を持った模索が行われていました、今となっては当たり前の事ですが。
その時代の空間誕生と創世、そして模索感が、山中と言う「かのようにの外」で模索する私達と共通していました。
デザインにおいてもプログラミングが優先されたものが散見され、紙をベースにしたデザインでは起こりえないアイデアの宝庫であり今現在そう言ったページを見ると機能を失いただのデザインとして見る事ができるものもあります。ある意味「用の美」とも言えるのかもしれません、用と美がせめぎ合うそんなところに模索の雰囲気を感じました。
コミニケーションツールとして作ったBBSも新しい発見でした。
現在主流のSNSとの差異はなかなに面白いもので、完全匿名、通知なし、削除キー、など現在では考えられないくらい不便ではあるのですが、その不便さに何か一種の自由を感じてしまうのは私達だけでしょうか?
90年代は世界中でネーチャーライティングならぬネットライティングの時代だったのでは?

そして、山中模索は始まった。
気合いの入った広報ではあったが
予想通り実際に現地に来てくれた人は以前からの知り合いであり、実際にお会いして企画説明した人だけでした。実際に人に会う事の強さを感じました。

1回目8名
2回目3名
3回目7名
この場所に初めて来る人も含めて
そこに観客はおらず皆模索人です。
模索人と言ってもそこにルールはない、「バカンスの様な修行、修行の様なバカンス」と言う表現をしているのですが、この地で過ごす時間は突如修行になったり同じ事がバカンスになったりします。
皆それぞれで何かを感じる、何かを考える。
この場所のもっとも魅力的な部分は誰もが自然と模索人になっていく事なのだと思います。
この場所に来るための交通困難と言う苦労もまたそうさせるための重要なプロセスになっていると思います。

また、活動の風景を場所や詳細を伏せたまま積極的にSNSに発信した、招待状の存在すら知らない人には本当に意味のわからない世界感であったと思います。
ここでも「バカンスの様な修行、修行の様なバカンス」この言葉が重要な意味を持っていました。SNS上に見るその世界は、実際に体や本人が感じている事とアベコベのバカンスと修行になっている事を感じました。
体験をもとにした記憶と記録
記録は記録する媒体によって全く別の世界になっていく事を強く意識する事となりました。

この活動を行う上で作品と言うものは生まれないと当初思っていた、みな模索する事を目的として来るので、問題を孕むまでが今回でその結果が生まれるのは滞在中ではなくずっと先の事だと思っていました。
しかし、メンバーの中にフィラメンツさんが入った事で良作に恵まれる事になりました。
この3名のグループはこの企画以前にこの場所に滞在した事もあり言わば先模索人とも言える存在です。
すでにこの場所との対話や体験をしており、意識的な作品を発表できる状態でした。

そして今回のフィールドワークの中でこの場所には結構多くの先模索人がいる事にも気付かされた、
「美しき日本の残影」アレックス・カー氏
壁に飾られた今福龍太郎氏の詩
10年近くこの地に通い写真を撮っている宮脇慎太郎氏
みな「かのようにの外のような場所」で模索をした人なのだと感じました。
この場所への愛と敬意を作品から読み取ると同時に、なぜソローの誕生祭がこの地で行われるかわかった気がしました、場所ではなくここに集まる人に縁もゆかりもあったのだと。
最後にもう一つ報告があります、この活動の中でひとつのメディアが誕生しました。
「模索仙人」です。
我々は「野生の仮想空間」と呼んでいるのですが、現実には世界のインターネットにつながっていないローカルのみのサーバーです。
そのサーバーの中には模索仙人の部屋があり模索人達の巻き物が収蔵されています。
現在4つの巻き物が収められているのですが、現地でフィジカルな模索を行った人だけではなく、オンライン模索人として現地とは切り離された状態で巻き物を奉納してくれた猛者も2名います。

このメディアは今後も活動を続けていきます、模索仙人がどんな巻き物を収蔵していくかは時々広報していく予定ですが。
それがどんなものなのかを見るためには「野生の仮想空間」へのアクセスポイントを見つけなければなりません。
遮蔽物のない状態で周囲300mと言った所でしょうか。
いつの日か仙人が突然あなたのそばに現れ不思議な巻き物を見せてくれるかもしれません。


最後の最後になりましたがこの場所を作り育て維持し私達にチャンスをくれた稲盛氏に最大限の感謝を申し上げます。
ありがとうございました。



2024.6
カタチのブティック